真・善・美はプラトンが言い出した
ちょっと前からブログを書く目的は「真・善・美」にあるかな、と考え始めています。
「真・善・美」はギリシャの哲学者プラトンが言い出しました。
プラトンは魂は輪廻するものと考えました。
輪廻する魂はかつてイデア界という世界にいました。
このイデア界にいた私たちの魂は
真実とは何か?
善とは何か?
美とは何か?
全部わかっているのです。
しかし、現世にいる私たちの魂はイデア界の記憶はほとんどありません。
忘れてしまっているのです。
しかし、すっかり忘れたわけではなく、かすかな記憶は残っています。
例えば美です。
咲いている花は誰に教えてもれわなくても美しいと感じます。
川の音も、小鳥の鳴き声も何となく心地よく感じます。
イデア界ではそれのことを何となくではなく「絶対なる美」として認識ていたのです。
美しいものに出会った時
「どこかで見たような?」
「どこかで聞いたことがあるような?」
という懐かしさを感じるのはイデア界の記憶がちょっぴり含まれているからなのです。
人が知りたがるのはなぜか?
人には「知りたい」という欲求があります。
「世界は何でできているか知りたい」という大きな欲求から「誰かが自分の悪い噂話しをしていないか知りたい」という小さな欲求まで幅広くあります。
この「知りたいという欲求」は大きい小さいは別として誰にでもあるものです。
なぜ誰にでもあるのかというと、イデア界にいた魂は知りたい内容を全部知っていたからです。
「宇宙は何でできているか?」
「地球はどのようにしてできたのか?」
「何であの人はお金持ちなのか?」
「何で人は噂話ばかりするのか?」
すべて知っていたのです。
驚きです。
しかし、現世の人は誰一人としてイデア界の記憶はありません。
「知りたい」という欲求はイデア界で知っていたことを思い起こそうとする作業なのだとプラトンはいうのです。
現世で真・善・美をより強く追い求める人こそがイデア界に近づけるともいっています。
より近づいた人がイデア界の記憶をより多く獲得できるわけです。
イデア界にある大きな記憶を現世に持ち帰った人ほど功績のある人なのです。
そう、ノーベル賞を受賞した大村先生や梶田先生がその功績ある人なのです。
お二方の先生は新たなものを発見したり発明したりしたのではなく、イデア界での記憶を持ち帰った偉大な人物だと言い換えられるわけです。
イデア論を語っていると、頭が混乱してきますね。
何が現実で、何が現実でないかわからなくなってきます。
そろそろpart1は終わりにしたいので、現世に戻しましょう。
世の中の出来事はすべて真・善・美で語られるのかなと考えています。
一つでも多く真・善・美がブログで書ければいいかな、と思っています。
part2では「真・善・美」の分類がなぜ必要か、というあたりを考えてみたいと思います。
では、また。