真・善・美ってそういうこと?
前回は真・善・美をプラトンのイデア論から見てみました。
今回はなぜ真・善・美なのかを考えてみたいと思います。
三つのうち「美」だけはわかりますが、「真」と「善」はわかりにくくありませんか?
「真」は科学で証明できるだれもが疑いのない事実。
「善」は道徳、倫理で客観的に合意している内容。
「美」は芸術など主観的に領域。
と、いうことです。
更によくわからない考え方に次のようなものがあります。
「真」は三人称。
「善」は二人称。
「美」は一人称。
見たことも聞いたこともない人も多いと思いますが、もう少しこの話にお付き合いください。
私たちは今、生きている世界、人間関係を
「一人称視点」
「二人称視点」
「三人称視点」
を通して見ているのです。
「美」一人称視点
一人称視点は私だけ、自分しか知らない視点です。
私が今何を考えているかは誰もわかりません。
私だけです。
「美」と感じるの実は私だけの視点、主観的な視点なのです。
世間でピカソは素晴らしい、偉大だという評価があるのでピカソの絵に芸術、美を感じる人がほとんどです。
が、自分ひとりになってピカソの絵を見て「美」を感じるか、感じないか、微妙なところです。
芸術だ!と感じるも良し、感じないのも良し。
自分自身で決めるのです。
「美」や「芸術」は実に主観的で、個人の感性によるのです。
個人の目だけ判断すればいいんであって、他人は関係ありません。
「私」という一人称の目で「美」は判断するべきものです。
これが「美」を一人称視点と称する理由です。
「善」は二人称視点
三つのうちで「善」が一番わかりにくいかな、と思います。
道徳、倫理が二人称視点なのだと言われてもよくわかりませんよね。
二人称は「私」と「あなた」の関係のことですから「道徳」や「倫理」とはちょっと結びつきそうにありません。
ごく大ざっぱにいうと善とは「空気」のことです。
ごめんなさい、更にわかりにくくしてしまいました。
私たしの暮らす家族や地域や職場には所属している人にしかわからない「空気」ってありますよね。
「空気が読めない奴!」「K・Y」っていう、あの空気のことです。
日本人にはわかるけど外国人にはわからない文化や慣習もこれにあたります。
ある職場に同業他社から優秀な人間が転職してきたとします。
転職してきた人間は業務改善のためにまっとうな提案をしたとして、既存の職員も頭では良い案だとわかっていても同調できないことがあります。
「わかるけど、嫌だ!」という裏には、その職場独自の考え方、いわゆる「空気」が存在していて仲間同士相談しなくても拒否反応がでます。
ここに相談しなくても二人とも同じ目で事柄を見るという「二人称視点」が存在しているのです。
良い提案をした転職者へ向ける複数の目こそが二人称視点なわけです。
二人称視点は普段生活しているとき、ほとんど意識しないので本当にわかりにくいのです。
意識しないのですが、家族にはそこの家族の空気、住んでいる地域にはそこの空気、職場には職場の空気、日本には日本の空気があり、私たちは知らない間にその「空気」に従い物事を考えているのです。
これが「善」の二人称視点です。
「真」は三人称視点
「真」は最初にも説明したように科学的あるいは数値的事実にもとづく視点ですから「善」より比較的わかりやすいと思います。
現代社会で生きるほとんどの人はこの三人称の視点からしか物事を見ていません。
一番わかりやすいのが「点数」でしょうか?
学校のテストの点、あるいは偏差値です
この点数によってどの程度の人間か多くの人が判断します。
しちゃいけないのですが、してしまいます。
この点数という客観的視点いわゆる三人称視点は会社に入っても、高齢者になっても「介護度」というように一生涯「点数」でその人間が判断されます。
体温、血圧あるいは検査をすれば血糖値、コレステロール値などで体の状態はおおよその判断がつき、私たちはその数値を気にします。
会社は売れ上げが伸び利益が出れば存続しますし、勤める人も潤います。
これも、数字という客観視点で判断しています。
交通ルールも選挙も数字で、私たちの判断材料のほとんどが三人称視点によっています。
三人称視点で判断する最大、最強のものは「お金」でしょう。
コンビニで買い物をする私たちの生活から世界の金融市場まで、すべてお金という客観視点で世の中は動いています。
これが「真」の実態です。
世の中は三つの視点から見たほうが良い
どうでしょう?わかりにくいですかね。
そろそろ結論に至りましょう。
一人称、二人称、三人称視点で世の中を見なければならないということが理解していただけたでしょうか?
そして、現代は三人称視点しか重視されていないという状況になっているってことをわかっていただけたでしょうか?
「真・善・美」の本当の意味は三つの視点から物事を見るという意味だったわけです。
part1のプラトンのイデア論とかけ離れてしまったようですが、「真・善・美」の三方向の視点から物事を見たり、知ろうとする努力はギリシャ時代と変わらないのだと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。