哲学的

私たちのまわりは境界線だらけ Part2

Part1では境界線をはっきりさせるべきだという考え方の人が多いというところで話が終わっていました。

日本人にはチームワークがない

「境界線は曖昧でいいんですよ」というのが私の考えでした。

なぜ、曖昧でいいと思っているか、わかりますか?

境界線をはっきりさせることは対立を生むことなのです。

仕事で持ち場の境界線がはっきしてしまえば、別の持ち場の仕事の領域には手をださない。反対に自分の領域の仕事は手伝ってもらわない。こうなります。

ある外国人が、日本人はチームで仕事をするのが上手だと聞いていたが、本当なのだろうか、と疑問に思ったことがあると書いていました。

ある一人の人の仕事がめちゃくちゃ忙しいくて夕飯も食べす机にかじりついて残業している状況があるとします。

机を並べる周囲の人は、その忙しい人の仕事を手伝ってあげようとしないというのです。

日本人の仕事のやり方は、その忙しい人の仕事を手伝うわけではなく、本日中に片付けなくてもいい自分の仕事をして「お付き合い残業」をするというのです。

お付き合いで残業するくらいなら、忙しい人の仕事を手分けして手伝って、みんなで早く帰ればいいのに、と思ったそうです。

みんで協力しあって仕事を早く片づけるのがチームワークであり、親切というものではないだろうかとその外国人は言っていたと思います。

こういうことって、日本中の会社や役所であると思いますね。

境界線を引いた結果じゃないでしょうか。

境界線を引くのは「悪」

境界線が対立を生む例の代表は国境でしょう。

中国の南沙諸島の問題、尖閣諸島の問題、竹島の問題、北方領土の問題。

線を引くと必ず問題が付きまといます。

線を引いたり、線を侵したりするとお互いに相手を「悪」と認識します。しかも即座にです。

尖閣諸島を国有化した時、中国は日本を「悪」と決め外交、経済で攻撃してきました。

南沙諸島の周りに中国が線を引いた時、アメリカや日本は中国が「悪」だと感じました。

境界線を侵した者へ感じる「悪」は人間や国家の根源にまで達するものらしいです。

中国や韓国は70年たって日本が国境線を侵したことについて、いつまでも忘れまいとしているのを見ると明らかです。

いくつか境界線の例を出して考えて見ると、境界線とは「ルール」のことだというのがわかってきます。

ルールを破ることは「悪」と映るのはわかりやすいです。

と、同時にルール一方的に設定することも相手には「悪」だと映るのです。

仕事の領域が曖昧であったところに何気なく「境界線を引く」この行為、実に重大です。

「善」か「悪」かの問題にまで発展してしまいます。

線を引いた方は悪じゃななく、正義で引いたんでが、それを聞いたもう一方は「なんて勝手な人」と悪人扱にしてしまいます。

いい加減は平和主義

Part1での話に戻ります。

厨房の人が介護職員に向かって

「トロミの入った湯飲み茶碗は汚れがこびりついているから介護の職員さんが洗う」というルールを相談もなく一方的に設定してしまったわけです。

言った方は正義です。

言われた方は「汚れがひどい時は当然洗ってきた、でも忙しくて洗えない時は厨房の方よろしくね」と曖昧にしていたことにたいして、突然ルール設定がされたわけです。

「キー!頭にきます」

皆さんの職場でも「張り切り屋さんが突然小さなルールを宣言してしまう」ってことありませんか。

この線を引くために、根回し、すり合わせ、打ち合わせ、ミーティング、会議と日本中で膨大な時間が費やされているかと思うと、もう滑稽にさえ思えてきます。

境界線って小さなことから大きなことまで本当にどこにでもあるのです。

ここで突然昔の人のことを持ち出します。

昔の人はちゃんとこのあたりのことはわかっていたのだと思いますよ。

曖昧でちゃらんぽらんなことを「いい加減」と呼び、ちょうどいい具合のことも「良い加減」と呼びます。

「あまり、きっちり線を引くと人間どうし対立を生むよ!」とわかっていたから同じ言い方になったんじゃないでしょうか。

皆さんの周りにいる「いい加減さん」、実は平和主義者なのかもしれません。

 

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