ぜったい失敗したくない宿坊選び
「宿坊に泊まる」どんな印象をお持ちでしょうか?
修行、鍛錬といった苦しいイメージがあるのではないでしょうか。
旅館やホテルを選ぶ場合は、建物の外観、食事やお風呂の写真を見てまずは第一印象。そして立地や料金設定などを加味して最終決定します。
さて、「宿坊を選ぶ」となるとちょっと別の力が加わります。
旅館を選んだときの前提条件に加え「あまり厳しい修行は勘弁してヨ」という甘えと、まるっきり逆の「普段の甘っちょろい生活に”喝”を入れたいんだ!多少インパクトのあるところがいいかな」と相反する感情が湧いてきます。
この相容れない二つの要望が湧き上がってくると宿坊選びは苦労します。
宿坊選びの最大の難関はここらあたりにあります。
心の満足を得たいので「失敗したくない」と思ってしまうのが宿坊選びの難しさです。
宿坊にサービスを求めないで慣例にしたがおう
宿坊が旅館と違う点はテレビがない、肉料理が出ない、修行がある、といったところでしょうか。
「ええっ!テレビないんですか?」
はい。蓮華定院の客室にはありませんでした。
でも、スマホは使えます。あえてスマホを見ないようにして非日常を私は楽しみましたけど。
あとは日本建築なので足先は多少冷たいです(細かい?)。
精進料理ですのでお肉はありませんが、ご飯の量がおおかったのでお腹がすくということはありませんでした。
俗世間から遠ざかりたい気持ちでしたので、何もせずに夜8時には床につきました。
宿坊に過剰なサービスを求めることなく、慣例にしたがう感じで泊まれば快適に過ごせます。
歴史を意識して泊まればすべて満足いく
高野山は1200年の歴史が流れ、宿泊した蓮華定院も500年の歴史があります。建物、庭、食事に先人たちの努力の時間が流れているのです。大日如来、弘法大師様への祈りを宿泊客とともに行い、お互い心の安寧を図っています。
サービスの提供側がお客様に満足していただける時間をどれだけ提供できるか、を競っているのがホテルや旅館ですが、宿坊はお参りのための宿なのです。
宿が何かを提供してくれるところではありません。
利用させて頂く側の気持ち次第で満足度は大いに変わります。
高野山の宿坊は日常と対峙するための空間
何千年も人々が大事にしてきた、この宗教ってなんだろう?
大勢の僧侶が仏様に向かっている原動力ってなんだろう?
裏返して、
今の自分が取り組んでいる仕事ってなんだろう?
少しでもセレブな生活をしてみたい、というこの価値観ってなんだろう?
高野山の宿坊に行ったならこんなふうに考えてみてください。
今の生活のルーティンを別な角度から見つめ、高野山で暮らす人の価値観と自分の価値観を対比する、というのはいかがでしょう。
日常から逃れるために過ごす空間ではなく、日常と対峙して自分を見つめなおす場所が高野山であり、宿坊に泊まるということだと思います。
高野山の垂直な時間を肌で感じてみる
高野山では大勢の僧侶の姿を目にします。
こんなに多くの人が、お経を唱え日々の修行を行っている場所は、本当に別世界です。
空海から1200年、今なおその教えを踏襲しているという流れに「垂直の時間」を感じます。
現代の生活は自分の目と耳に入ってくる浮遊物(情報)にしか関心が届かなっています。
パソコンやスマホで目の前の出来事だけを追い、只々「水平な時間」の中で物事を追い求めています。
「垂直な時間」が肌で感じられる場所は、そう多くはありません。
宗教都市高野山を歩くと先人たちの智慧と歴史が感じられます。
ここには「垂直な時間」が流れているのだな、と実感します。
宗教心は人間のなかの最も尊い心だと思う
いまは宗教と言うと怪しいものといったイメージです。
なぜ怪しくなってしまったかというと、お金と宗教が結びついてしまっているからです。
高野山にはそういった怪しさが一切感じられません。
ここに存在しているもの総てが「金銭欲」とは無縁だからです。
1200年間純粋に宗教へ打ち込んできた人々の熱意が感じられます。
新興宗教とは雲泥の差です。
宗教心は人間の中の最も尊い心なのかもしれません。
そんなことを考えられるのが高野山の宿坊です。
高野山の宿坊はどこも格式高く試す価値あり
難しそうなことをあれこれ書きましたが、結局は自分がどう楽しめればいいかです。
高野山の宿坊はできたら一人で泊まるのがいいかもしれません。
「どうしてこの地にこれだけの宗教都市ができのだろう?」と静かに考えられるからです。
私は蓮華定院に泊まりましたが、すべてが格式高い宿坊ばかりです。
ぜひ、高野山へ泊まって非日常を味わってみてください。
宿泊した蓮華定院の地図