努力の人、二宮金次郎は知っていました。
でも、二宮金次郎を祀る神社があることは知らなかったです。
休みがとれたもので小田原方面へドライブに行くことにしました。
小田原と言えば「かまぼこ」と「小田原城」。
名物を見なくちゃ、というわけで小田原城へ。
駐車場へ車を停めると大きな青銅の鳥居が見えてきました。
報徳二宮神社と書いてあります。
そういえば二宮金次郎(二宮尊徳)はこの近く足柄郡のお生まれだったのを思い出しました。
このブログを書くにあたらり報徳二宮神社のホームページを調べると、この青銅の鳥居は今年(平成29年)に新しく作り変えることが載ってました。
そんなこととは知らずに撮った写真が完成予想の写真(イメージ)と同じ角度だったもので並べて紹介しておきます。
報徳二宮神社の境内はクスノキの大木生い茂る、癒やされる場所です。
今回は入りはしませんでしたが「きんじろうカフェ」といったおしゃれなスペースもあります。
下の銅像が二宮尊徳翁です。
農民だった金次郎が武士になって「尊徳」と名乗りました。
金次郎は農家に生まれたが河川の反乱で一家が離散し、親戚の家に預けられた。
勉強して家の再興を願う金次郎だが、昼間は畑仕事や薪拾いで時間がない。
みんな寝静まった夜、灯りを燈して勉強していると「油の無駄だ!本など読むな!」と叔父さんにしかられる。
ならばと、金次郎は菜種を空き地に蒔き、それを収穫して油を手に入れ、自分の油でまた勉学に励んだのだった。
その努力の甲斐あって24歳で実家の再興を果たす。
その後、小田原藩の財政を立て直しを頼まれこれも再興。
下総、今の栃木県真岡市あたりに小田原藩の分家がありそのあたりは不作が続き村人が村を捨て逃げ出すようなところであった。
その村の復興を託され、村人の抵抗にあいながらも復興を果たす。
天保の大飢饉では餓死者が多数出たが二宮が携わった村からは誰一人死者は出なかったというほど豊かな村になっていた。
生涯615の村を再興したといわれている。
金次郎の生い立ちをしると、銅像の金次郎もやけに利発そうに見えてきます。
薪を背負った金次郎のブロンズ像で戦前のものはこの一体だけだそうです。
背中の薪の作りも妙にリアルです。
努力の人、二宮尊徳を祀る神社ですから合格祈願の絵馬が目立ちます。
神社の拝殿は幽玄な感じでかなりパワーを感じます(たぶん?)。
「努力の人」にあやかりこの場では神妙にお祈りしたのですが、家についたらソファーに転がりテレビを見ている始末です(情けな~)。
訪れたのは2017年2月7日。
梅の花もほころび、ほっとする香りがつつまれとても良いパワーをいただきました。